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2010年8月

北大正門

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北大正門

収容バスは、北海道中央交通

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やられた・・・

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ありえへん in 北海道

北海道大学正門近くにて

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やはり北海道

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限定品

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鼎泰豐

新宿タカシマヤができた当時から、ずっと行きたいと思っていたお店。
いつも行列していて、その行列が尋常でないことから、遠巻きに見ているだけだった。

いずれ、この店だけの弾丸ハシゴツアー(新宿・汐留・台湾)に行ってみたいと思ったこともあったが、なにしろ「ブツ」を食べたことがない。

そして今日、ようやく寄ることができた。
日本橋だったけど。

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小肉包と蝦麺。

味は? ★★★☆☆ かな。
うん、弾丸ツアーはしなくていいや(笑)。

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8月24日の月

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三宅坂付近から桜田門方面を見る。

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ふわふわスフレ@皇居の見える店

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季節のソースは、マンゴー♪♪♪

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ソースとホイップをかけて食べろとのこと。

美味しさでは、★★★☆☆ かな。

新宿タカシマヤにあるスフレ屋さん(店名覚えていない)のほうがいいかな?

そして、西日が入るからと引かれていたカーテンが開けられて、目の前に夕日が。

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アフタヌーンティー新丸ビル店にて。

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Hanabi

東京湾花火大会。

辰巳側から。

建物の影になっちゃったけど。

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涼を求めて

1ヶ月あまり更新していなかったのは、思うところあって・・・ではなく、単にネタがなかっただけ。
特筆すべきことも、非日常的出来事もなかった、ということ。

最近の私は・・・というと、そうそう、お出かけしたのでそのことを残しておこう。

先週末、RUN友くろさんの軽井沢にある別荘にお邪魔した。
金曜日の夜、仕事が終わった後、新百合ヶ丘に集合し、くろさんの車で軽井沢へ。
今回の参加者は、RUN友のcoconutさんとイメルダカーチンさん。

cocoさんとイメちゃんは私より一足早く到着。くろ邸で私の到着を待つ。
その後、新百合ヶ丘駅前の大型スーパーで食料や飲料の買い出し。
軽井沢到着は夜中になる予定で、その時間になるとコンビには開いていないし、そもそも近所にコンビニがないという。
たしかに、閑静な別荘地だとそうだろう。

買出しの後、夕飯を食べて、いざ車に乗り込み軽井沢を目指す。

どこをどう通っていたのかは、わからない。
途中、セルフ給油所に立ち寄りガソリンを入れる。
セルフ給油って、初めて見た。

関越自動車道、上信越自動車道を通り、軽井沢へ。
上信越道は以前通ったことがあるが、そのときは前後に全く車がいなくて、貸切状態だったのに、今回は渋滞とは言わなくても結構な交通量で驚いた。
さすが、夏休みだな~。

別荘に到着したのが、11時過ぎ。
それからシャワーを浴びて、翌日の計画を練り、就寝。

涼しい。とにかく涼しくて過ごしやすい。
肌掛け布団をかけていたが、全然邪魔にならないし、寒いということもなく丁度いい気温。
なんてすばらしい所なんだ!!

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8月12日

8月12日に想うこと・・・

25年前の8月12日。
日本航空史上最悪の事故、日航ジャンボ機が群馬県上野村山中に墜落した事故が起きた日である(以降日航ジャンボ機事故)。

その日、自分が何をしていたか、覚えていますか?

25年前・・・1985年というと、私は高校を卒業したものの受験に失敗し、浪人生活を送っていた年である。
予備校に通っていたが、予備校に夏休みがあったかどうかは覚えていない。
確か、夏季集中講義(夏期講習)があったはずだから、予備校には行っていたと思うが、通常授業ではなかったのだと思う。

予備校に通うにあたり、いろいろとあって、肩身の狭い生活を送っていたと記憶している。
何しろ、父親と大もめにもめて、高校卒業から3ヶ月間、同じ屋根の下に暮らしながら父とは顔を会わせない生活をしていたのだから。
ようやく、父とも会話を交わし始めて、間もない頃だったと思う。

まだその頃は、父も定年前で会社に勤めていて、毎年この時期は1週間ほどお盆休みだった。
その時期に合わせて、母の実家のある伊豆へ出向き数日間滞在していた。
私が中学生になる頃から、私と姉は伊豆へ同行することはなくなり、両親のみでの訪問となっていた。

この日は、両親が伊豆から戻る日だった。
日曜日の夕方で、交通渋滞に巻き込まれた両親が、どこか高速のSAから電話してきて、帰りがかなり遅くなるという連絡を受けたように思う。
(携帯電話のない時代だから、連絡するにはどこかの公衆電話からかけてくるしかない)
夕飯を用意しいていて、
「帰ってから夕飯を食べるの?」
というようなことを聞いた気がする。
(何しろ父は、出先で食事をするのが大嫌いで、どんなに遅い帰宅でも自宅で食事をしたいのだった。案の定この日も、帰宅した夜中に食事を食べた。)

我が家では、日曜日の(日曜日に限らずだが)夕刻のテレビ番組は、必ずNHKを観ることになっていて、その日もずっとNHKにチャンネルを合わせたまま、テレビがついていた。
姉は、自室にこもって音楽を聴きながら何か別のことをしていたかもしれない。

羽田発伊丹行きの日航ジャンボ機が、行方不明になったという第一報は、テレビで知ったのだと思う。
それからずっと、とにかくずっと、夜中まで。
NHKにチャンネルを合わせたまま、ずっとずっとニュースを見続けた。

(我が家にはその頃、情報源統一のルールというのが暗黙にできていて、テレビニュースはNHK、新聞は朝日新聞と決まっていた。どこにいてもいつであっても、情報源が同じなら、共通の情報を得られるということに基づいている。父が海外へ単身赴任したときも、日本語版の朝日新聞を購読していたし、このときもラジオはNHKの第一放送を聴いていた。)

行方がわからなくなったジャンボ機が、航路からずれて、伊豆半島をかすめて飛んでいたという情報がはいる。
もしかすると、両親が巻き込まれた渋滞の、その外の景色にジャンボ機が、通過していたのかもしれない。
そんなことを想像してみたりもした。

行方不明のジャンボ機の状況がだんだん深刻になってきて、絶望的状態を感じながら、いつ戻るかわからない両親の帰りを待つというのは、不安と恐怖に包まれている感じでもあった。
ただ、大渋滞に巻き込まれているだけ、とわかっていても、両親の安否すら気になってくる。

夜中の12時を過ぎて、父の車のエンジン音が聞こえた。
(その頃の我が家にクーラーはなく、夏場はサッシ窓を全開にして網戸にし、外からの風と扇風機で涼をとっていた。なので、車が通る音が聞こえ、そのエンジン音で父の車を聞き分けることができた。冬場の場合はこの音が聞こえないため、門扉を開けるまで気付かなかった)
外へ出て車がガレージに入るのを見守り、車からたくさんの荷物をおろして家へ運び入れる。
両親が手を洗っている間にお茶の用意をして、ひとまずダイニングテーブルについて、話をする。
が、いつもなら、田舎の祖父母の話になるところが、この日はもう、日航ジャンボ機の事故のことばかりだった。

遅い時間の夕飯をとらせ、夜中の2時くらいまでテレビを観ていただろうか。
それから就寝した。

翌朝である。
「生存者が見つかったわよー」
という、母の声に目が覚めて、階下におりる。
陽が昇り、明るくなった事故現場の惨状がテレビ画面に映し出されていた。
この惨劇のなか、よく生きていたと思うと感激はしたものの、あまりに多くの犠牲者がでたことに、辛く悲しみのほうが大きかったことを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・

あれから、もう、25年である。
事故の日の数日前から、新聞では関係者のインタビュー記事がのり、テレビのニュースでも取り上げられていた。
遺族の方たちも高齢化し、事故を知らない世代が増えてきているという。

でも、遺族ではない私達の中にも、この事故が記憶から消えないという人は、少なくないのではないか。
きっと、この日に自分が何をしていたか、記憶している人はいると思う。

そういう私も、この時期には毎年、犠牲になった方たちの冥福をお祈りし続けて行きたいと思う。


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